日本製の更紗は木版捺染、型紙捺染で模様をつけるのに対し、比較されているジャワ更紗(バティック)は、堅牢な蝋纈染です。到底かなわなかったのは当然です。
それから100年以上たった嘉永6年(1853)の『守貞漫稿』(『類聚近世風俗志』第十七編「染織」)に、初めて和更紗という言葉が出てきます。このころには和更紗の技術も進み、更紗もすっかり生活の中に溶け込んでいるのですが、それと同時に、生産地別の分け方による名称も定着してくるのです。
産地別では南蛮貿易の刺激を受けた長崎で、まず長崎更紗ができます。いつごろできたのかは定かではありませんが、明和のころ(1770年のころ)にはすでに立派な更紗ができていました。その流れをくむのが天草更紗です。貿易港堺でも堺更紗ができます。堺も室町時代からの異国物産の公益口で、江戸時代になっても長崎から渡り更紗が、堺の港に運ばれてきました。和更紗の中でも、南蛮風の調子が強いようです。大消費地の京都、江戸にも、京更紗(堀川更紗)、江戸更紗ができます。鍋島藩の庇護のもとにつくられた鍋島更紗は、日本産更紗が全体に”南蛮調”の更紗である中で、ひとつだけ模様の輪郭を木版、模様の彩色を型紙、という手法で、独自の模様を染めていました。慶長の役(1597年)で朝鮮に出兵した藩主鍋島直茂が、帰るときに連れてきた工人、九山道清が創始したもので、道清更紗ともいわれます。その技術の後継者半兵衛の名をつけて、半兵衛更紗ともいいます。
このほか南部藩の南部更紗(紫更紗)、秋田更紗(主として紅更紗)などがあります。
和更紗の模様は全体にその色がおとなしい。できるだけ異国の雰囲気を強調する和更紗はもともと”異風”なのですが、それでも本来の色の強い渡り更紗に比べると、おだやかな色をしています。