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ジャワ更紗で作った帯が好評です。

私自身、このアジアの布にとても心惹かれます。

なぜかこれらの柄、色合いがきものに合うのです。

もともと、日本の文化が西から渡ってきたものだから・・でしょうか。

(帯は晏'sコーディネートでご覧下さい。)

バティック(ジャワ更紗)  ・和更紗


■バティック(ジャワ更紗)

バティックはインドネシアの数多い島の一つ、ジャワ島の更紗「ジャワ更紗」のことです。これは蝋纈染(ろうけつぞめ)なので、いつの間にか蝋防染技法全般を逆にバティックと呼ぶようになりました。蝋纈染とは、布に樹脂と蝋とを混ぜ合わせたもので文様を蝋置きして防染・浸染します。色を重ねるたびに蝋を置き直し、掻き落としたりするやっかいな染めです。

バティックの技法は、十世紀ごろにインドから伝わりました。しばらくの間は王家の庇護の下に、上流階級の婦人の間に手芸として発達していきました。1347年の中国の元時代の本に「花印布」とか「極細堅耐色印布」の名で、バティックのことが出て来ます。

16世紀に入るとインドネシア諸島をイスラム文化がおおいます。それまでこの地での染織には、人像に姿を変えた神が描かれていました。装飾というよりも土着信仰への崇敬です。ところがイスラムの教えは、人の肖像をつくると地獄へ落ちてしまう、といいます。そこで、アラベスク(蔓草文様)や幾何文が主流となります。でも、伝統的な文様や中国、インド、ヨーロッパの影響を受けた文様も残り、島ごとに特色を持つようになります。

バティックの特質の一つは、色彩は多くはありませんが、文様の種類が圧倒的に多いことです。数千を越える、という研究者もいます。バティックが一般化し、同時にその特徴が顕著になったのは、17世紀になってソガ染料が生み出されてからです。ソガ染めとは茶系統の調合染料です。バティックを並べてみると何となく茶系統が多いと感じるのは、ソガ染めのためです。それがインドの更紗と違った趣をみせています。

バティックの主産地はジャワ島の中部と北部。中部のソロ(スラカルタ)やジョクジャカルタにはヒンドゥー・ジャ期の伝統的モチーフが残っています。なかでもガルーダ模様に特色があります。ガルーダとはヒンドゥー教三神の一人ヴィシュヌ神が乗る聖鳥・金翅鳥。北部の代表的バティックは、茜などで染めた華やかな花模様です。港町が多く、外国からの多彩な色調の影響も受けています。バティックには、チャンチンという絵筆がわりの器具を用いる手描きと、チャップという銅板押し型を使う捺染法の二つがあります。

日本へは17世紀、南蛮貿易で入ってきました。このジャワ更紗が、それからの日本の和更紗の発展に大きな影響を与えることになります。

インドネシアは数千の島からなる世界最大の島嶼国家です。インドと中国という二つの巨大な文化圏の狭間にあり、この二つの文化を結ぶルートに位置しながら、自分たちがつくりあげて育ててきたバティックで独自の染色文化を主張しています。

■和更紗

-片町に更紗染めるや春の風-

蕪村(1716〜83)がこう詠んだ江戸の時代、更紗が大流行していました。南蛮からの輸入品だけでなく日本産の和更紗が盛んにつくられるようになった時代です。

琉球更紗(紅型)を除いて、日本の本土でつくられた更紗を「和更紗」と総称します。

正徳2年(1712)にできた『和漢三才圖會』に「華布」「印華布」と出ているのが更紗のことで、まだ「和更紗」の名称こそ確立していませんが、日本各地で盛んにつくられていたことを証明しています。そして華布はまだまだ南蛮渡りに比べると出来が悪く、「洗えば即ち華文消え・・」つまり洗うと模様が落ちてしまう、と嘆いています。

日本製の更紗は木版捺染、型紙捺染で模様をつけるのに対し、比較されているジャワ更紗(バティック)は、堅牢な蝋纈染です。到底かなわなかったのは当然です。

それから100年以上たった嘉永6年(1853)の『守貞漫稿』(『類聚近世風俗志』第十七編「染織」)に、初めて和更紗という言葉が出てきます。このころには和更紗の技術も進み、更紗もすっかり生活の中に溶け込んでいるのですが、それと同時に、生産地別の分け方による名称も定着してくるのです。

産地別では南蛮貿易の刺激を受けた長崎で、まず長崎更紗ができます。いつごろできたのかは定かではありませんが、明和のころ(1770年のころ)にはすでに立派な更紗ができていました。その流れをくむのが天草更紗です。貿易港堺でも堺更紗ができます。堺も室町時代からの異国物産の公益口で、江戸時代になっても長崎から渡り更紗が、堺の港に運ばれてきました。和更紗の中でも、南蛮風の調子が強いようです。大消費地の京都、江戸にも、京更紗(堀川更紗)、江戸更紗ができます。鍋島藩の庇護のもとにつくられた鍋島更紗は、日本産更紗が全体に”南蛮調”の更紗である中で、ひとつだけ模様の輪郭を木版、模様の彩色を型紙、という手法で、独自の模様を染めていました。慶長の役(1597年)で朝鮮に出兵した藩主鍋島直茂が、帰るときに連れてきた工人、九山道清が創始したもので、道清更紗ともいわれます。その技術の後継者半兵衛の名をつけて、半兵衛更紗ともいいます。

このほか南部藩の南部更紗(紫更紗)、秋田更紗(主として紅更紗)などがあります。

和更紗の模様は全体にその色がおとなしい。できるだけ異国の雰囲気を強調する和更紗はもともと”異風”なのですが、それでも本来の色の強い渡り更紗に比べると、おだやかな色をしています。

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